Jun Sekiguchi official blog/関口純

関口純オフィシャルブログ

関口存男と新劇 〜踏路社と関口演出術について(日本に於ける西洋演劇の系譜)〜

f:id:jun-sekiguchi:20180425165550j:plain

関口存男著「素人演劇の実際」

 

そういえば先日、爺さんの著書「素人演劇の実際」を読んだ座員から「ウチ(楽劇座)の稽古みたい〜!(「の様だ」の意。)」と言われ、話を聞いてみると「なるほど。確かに!」と思う部分しばしば。

 

実は私、この本、長文部分は読んでいたものの、坪内逍遥作・関口存男潤色「いつまでもつづくお話」の実践部分に関しては「流石に古かろう」などと勝手に決めつけ「そのうち時間が出来でもしたら読むとするかね」と思ったのはいつの日のことか?・・・まあ、月日が経つのは早いもので・・・という訳で、正直に申し上げると、全く(厳密には「ほぼ」)読んでおりませんでした。灯台下暗しとはよく言ったもので・・・まあ、言い訳はこのぐらいにして。

 

そう、この「素人演劇の実際」、演劇の指導書としては、実はなかなか気の利いた本で、演劇指導者の為の教本にはもってこいなのです。プロの演出家もそうですが、学校演劇の顧問の先生等、素人演劇の指導者にとっては必読の書と言っても過言ではない。

 

ただ如何せん、字や表現が古い。また、今風の演劇を普通に疑いなくやってきた人には少々解りづらい部分もあることだろう。そこで注記などつけて現代語に改定して「演劇の教科書を作りたいなあ」などという考えが浮かんでいる。

 

f:id:jun-sekiguchi:20180425165552j:plain

存男の残した演劇ノートより「発声法について」。


我が家には、爺さんが残した演劇についてのノートやメモの他に、「ラインハルトの演出したる『幽霊』」というヤコプソンなる人物による評論や、エミール・ライヒ「イプセンの『幽霊』」といった論考を若き爺さんが翻訳した原稿(多分、爺さん22〜23歳当時のものでは無いだろうか)も残されており・・・イプセン「幽霊」は、爺さんが本格的に演出した最初の作品(踏路社第5回公演)・・・この辺りの文献と、日記などから推測される、当時、爺さんが読んでいたであろう理論書等を併せて読み解いていけば(研究が進めば)、日本に於ける西洋演劇の演出術、俳優術といった、その後、築地小劇場を経由し、俳優座、文学座等に続いて行く、いわば新劇の水脈とでもいった様なものが掘り起こせるかも知れない。

 

青山杉作氏は「われわれは、関口くんを中心に演目を決めて研究するようになった」と書き残しており、木村修吉郎氏は、演劇論やリアルに徹する自然法の演劇を方向付けしたという点で「関口は日本新劇史の中から、そうしても洩らす事の出来ない存在」と発言しており、この辺りも併せて考えると、爺さんの残したものが日本に於ける西洋演劇の歴史の空白部分を埋める1ピース(ちょっと大げさかもしれんが)となりうるのかもしれない。少なくとも踏路社の演出術に関しての輪郭がかなりはっきりしてくるのではないだろうか。

 

私にとって優先順位の高い仕事であることは間違いなさそうだ。勿論、これはエッセイとしてではなく、論文として書くべきだろう。

 

 

 

Roots ~ 私の血となり肉となり〜

f:id:jun-sekiguchi:20180424155542j:plain

愛機prophet-5(2台所有しているが・・・現在、1台故障中。)

 

今回の公演では珍しくprophet-5を使用していない。

ここ数年、楽劇座公演などLive演奏の際には大抵このprophet-5を弾いている。

 

prophet-5と言えば、シンセサイザーの歴史に燦然と輝く名機中の名機としてその名を轟かす伝説のポリフォニックシンセサイザー。まあ今更、私が言うまでもないが・・・一応、詳しくない方の為に。

 

所謂、ビンテージシンセサイザーというヤツだ。私が所有しているものは80年代前半に作られたもの。

 

小学生の頃、母に武道館へ連れて行ってもらいYMO第2回ワールドツアー日本公演を観た。その時、坂本龍一氏らが弾いていたのがこのprophet-5。

80年代のそれこそYMOからアイドル歌謡、洋楽に至るまで、あらゆるレコード(CD)でその音を聴くことが出来る。

 

ところが私の場合、意外にもレコーディングでの使用頻度は低い。

 

10年以上前になるが、主に某テレビ局や劇場なんかで仕事(作曲・編曲)をしていた時には、実はあまり使っていなかった。今でもレコーディングにはあまり使用しない。〆切までに時間がない場合、これが結構、厄介なのだ。

 

まあ、今回使用していないのは、単に自宅と公演会場を行ったり来たりするのが大変だったからというのもある。それに移動は機材にとってもあまり嬉しいことではない・・・ご老体(ビンテージ)にとって旅はキツイものだ。

 

そんな訳で、久しぶりに昔のデジタルシンセを引っ張り出してきたのだが、これはこれでなかなか新鮮なものがあったりする・・・液晶が相当お疲れで、既にディスプレイの役目を果たしていなかったりするが。

 

欲を言えば、音や操作性(そしてデザイン!)はアナログ、使い勝手はデジタルというのが今の私の環境にとっては理想的だと言える。

 

という訳で、

            prophet-6が欲しい!! 

 

何だったら誰かプレゼントしてくれても良い!

 

 

さて、楽劇座「ルーシー・フラワーズは風に乗り、まだ見ぬ世界の扉を開けた」の連続公演最終章、明日の水曜日(2018.4.25)が最後となります。

「一回は観ておこうかな」と思っていた方はこの機会に是非ご覧下さい!

 

 

さて、ここからは「存在の男展」関連。

今日の存男は

f:id:jun-sekiguchi:20180424155544j:plain

法政大学の教壇に立つ、若かりし頃の教師・存男。

 

関口家のルーツについてのお話。

 

関口家の人間は総じて教え好きだ。

 

江戸時代には寺子屋を生業としていたという。

寺子屋兼農業(存男に言わせると「埼玉の呑百姓」だという)。

 

私が中学生の頃、存男の息子たち(私にとっては大叔父さんたち)に英語や数学を習いに行ったり(私としては勉強に行くというより、メインは遊びに行っていたのだが・・・)なんかすると、彼らは毎回必ず夢中になって教えてくれたのだが・・・これが結構長い! 次男の存彦なんてウチ(彼にとっては実家)に来てまで英語を教えてくれた・・・決まって、爺さん(彼にとっての親父、即ち存男)の思い出話を交えながら。すると母・久美子は「叔父ちゃん(存彦)、見た目も喋り方も、ホントお爺ちゃん(存男)にそっくりになって来た!」と、これまたいつも決まって言ったものだ。

 

例えば、内田百間氏との法政騒動については、まさにそういった際の存彦の話で初めて知った。今にして思えば、関口家の跡取りとしての「誇り」とでもいった様なものを植え付けられていたのではないかと思う。

 

私自身、爺さんについての話を聞くのは大好きだった。勉強はともかく(笑) 

 

まあ、中学生の私にとっては「話が長いなあ」と思わなくもなかったが・・・今、私も間違いなくそうなっている(笑)。

 

教え出すと長い! 止まらなくなってしまうのだ。

 

確かに自分が話しているには間違いないのだが、誰かが私の口を通して話しているのを自分でも聞いている感覚? この感覚、伝わるかどうかわからないが・・・。

 

もちろん、稽古も御多分に洩れず・・・。

 

ああ、哀れな劇団員たちよ!

 

ただ、お陰で熱心な人間しか残らない。

 

だから、

               これでいいのだ!

 

 

 

 

私的で詩的な・・・ 〜存男は曾祖父(ひいじい)さん、純は曽孫〜

 

f:id:jun-sekiguchi:20180422184946j:plain

彫刻のモデルになった頃の幼き祖母・充子(彼女の美貌は存男ご自慢だったという)

 

さて、「存在の男展」に興味を持って頂くことを目的に、今回のイベントからは漏れるであろう情報を書いてみようと、こうして爺さんの話を書き始めた訳だが「他にもっとやることあるだろ!」という声が脳裏に木魂する・・・紛れもなく私自身の声だ。

 

存男の話に興味のある方にとって私が「存男の孫」であることは重々承知だが、私にとっては「私の爺さんが存男」ということになる。そのままの意味であり、それ以上でも無ければそれ以下でも無い。

 

存男はその著書「或る日記」の序で「この書の原文は、別に有名な作品でもなく、また第一ドイツ人の書いたものでもありません。驚くなかれ、かく申す私自身の親父の一人息子、即ち私自身が書いたものです。〜省略〜 どうせ読むならちゃんとしたドイツ人の書いた本当のドイツ語が読みたい。こう仰言る方も随分あるだろうと思います。」と書いているが、まあ、こんな心情です。

 

何故こんなことを書いたかといえば、「みなさん各々に期待する存男像」といったものがあると思うのだが、もし私がそれに応えようと、それこそ今流行りの「忖度」でもしてしまえば、それこそ架空の話をデッチ上げかねない。まあ、私の性格上これはちょっと嘘で、実際のところ私の場合なら、忖度を求められる環境に晒されると真逆のことをやりたくなるといった方が正確だろう。何にしろ、そうなってしまえば「嘘」になる。これでは実に具合が悪い。

 

まあ、そんな訳で、あくまでも私のブログに爺さんのことも書くというスタンスで書いて行きたいと思う。とはいえ、実際のところ、この1年は爺さんの資料に費やす時間が多くなるので話題も爺さんのことが多くなるのは事実だが・・・。

 

爺さんのファンの御人にとっては全く興味がないであろう私自身の話も書かせて頂くが、これはどうか一つご了承頂きたい。

 

私も昨日気づいたのだが、どうやらこれは私のブログらしいので・・・。

 

それでは存男について。

 

f:id:jun-sekiguchi:20180422184948j:plain

爺さんの知的在庫(デッドストック)・・・詩集

 

詩集なるものが発見された。

有り難いことに日付入りだったので、当時の出来事と照合し易い。

 

 

静かな家 (関口存男未発表詩集より)

 

静かな家に引っ越して

間もない秋の夜に

蟲が鳴く。

 

急に世間がひっそりとして

人も来ぬ淋しさに

妻も児も早く寝る。

 

電燈の

部屋一面の明るさに

坐っているが何にも出来ぬ、

眠くもならぬ。静かな家が呪われている!

 

小さな足を動かして

子供が夜具をぬぐ・・・

おお、人生が其処にいるのに、

おお、幸福が手近にいるのに、

家も貴様も呪われている!

 

静かな家に引っ越して

苦しい真夜中に

蟲が鳴く。

 

(一九一八、 十月二日)

 

1918年の10月といえば、存男が演出する予定だった踏路社第6回公演「死の舞踏」が中止になった頃だろう。日記には9月13日に千駄ヶ谷に引っ越したとあるから、新しい家=静かな家での幼い娘・充子(当時1歳半)を抱えた若き日の存男・為子夫妻・・・彼ら親子3人の暮らしを覗き見ている様な気持ちにさせる。青春の苦悩とでもいった趣の詩だが、或る意味、祖母にとっては生涯を通して1番幸せな時期だったのかも知れない。

 祖母は当時としては珍しくバタ臭い(西洋風な)顔立ちで、髪も天然パーマだったこともあり、近所の人たちから「関口さん家にはよく外人さんが出入りしているけど、充子ちゃんのお父さんは本当に存男さんよねえ?」と噂されていたらしい(笑)

 

 

 

 

 

誰のための勉強? 〜座員と私、存男の場合〜

 

f:id:jun-sekiguchi:20180420202505j:plain

爺さん、幼き日の日誌。

f:id:jun-sekiguchi:20180420202728j:plain

資料の山(ほんの一部)

f:id:jun-sekiguchi:20180420224016j:plain

「ルーシー・フラワーズは風に乗り、まだ見ぬ世界の扉を開けた」本日のゲネプロ。

楽劇座「ルーシー・フラワーズは風に乗り、まだ見ぬ世界の扉を開けた」連続上演最終章。明日が公演初日だというのに、この一週間、座員の五條なつき・齋藤蓉子・大西佐依の3人には、爺さんの資料整理(もはや探索)を結構な感じで手伝ってもらっている。こんな風に書くと、机の上でお上品に古い書類の整理をしている姿を思い描くかも知れないが、実際のところは狭い倉庫に這いつくばっての肉体労働系の作業・・・ちょっとのつもりが・・・だから衣装を着たまま!・・・ちなみに本日、初日前日にも関わらず、台詞の大量追加&7〜8割の演出変更。

 勝手なこと言う様ですが、上手いことやってくれると信じております! はい。

f:id:jun-sekiguchi:20180420202855j:plain

資料を整理するルーシー・フラワーズ?

 

それにしても、稽古を数日潰すなど随分と迷惑をかけてしまった。この場を借りて、彼女たちに感謝の意を表したい。

 

しかし彼女らは、五條、齋藤が演劇科出身、大西は関西学院大学の独文科出身という訳で、手伝ってもらうには実に好都合な人材でもあるのだ。

 

f:id:jun-sekiguchi:20180420221824j:plain

森田草平ほか教授陣&生徒たちと。法政騒動後? やる気みなぎる写真。

やはり勉強はしておくものだ。演劇もちろん、大学で学んだドイツ語の知識が別の文脈で活かされるとは。まあ、こんな風に書くと「それなりの学校に行った人はやはり優秀」などと言っている様に思われてしまいかねないが、そう単純な話でもない。

 

学校と勉強はまた別物なのだ。

 

私自身、幼稚園から大学院まで、学校と名の付くものとはあまり相性が良くない・・・まあまあ優秀だったと自負しているのだが。

だから、学校にさえ行けば素晴らしい人間になれるとは口が裂けても言えないし、言う資格もない。も(う)一つ重ねて、言う気もない!

 

f:id:jun-sekiguchi:20180420222226j:plain

目白文化村、自宅書斎で勉強中の存男。

さて、両親に「(兄弟で)一番クズが残った!」と言わしめた爺さん(存男)はどうだったかと言うと、立派な軍人になることを期待されていたにも関わらずあっさり辞めてしまう。外務省に入っても「末は外交官か?」という両親の期待に応えることなく「私は文学者だ!こんなくだらん奴ら云々・・・」と辞めてしまう。大学で教え出せば出すで・・・二度あることは三度ある!・・・「末は博士か?」という、その哀れな両親の最後に残された僅かな望みは見事崩れ去るのであった。

 

爺さん曰く「くだらん奴ら(わからん奴らに)に評価してもらう為の論文を書くなんて、そんなことに時間を使うぐらいなら、もっと他にやることがある!」と言ったとか。

 

まあ、私の場合も学生生活の中で学んだことと言えば、まさにその様なことだったかと・・・。

 

だからこそ、爺さんは教育に熱心だったとも言える。

 

f:id:jun-sekiguchi:20180420202722j:plain

存男、若かりし頃(そうは見えないが・・・) 法政大学の学生たちと。

 

そこは私も見習いたいところだ。